竹ケ島の七不思議


竹ヶ島の中心に生い茂る竹林

竹ヶ島は知られざる四国の聖地、弘法大師ゆかりの地です。その東海岸沿いには全国に類をみない巨大な美しい「壁の岩」と呼ばれる磐座がそびえたちます。島の中心部分、南北に隆起した岩石に囲まれた窪みには、直径100mほどの竹林が広がっています。古くから生い茂るこの竹林の存在が、竹ヶ島と言われる所以です。竹ヶ島にはいくつもの不可解な謎が潜んでいます。その謎を解明することにより、空海がこの島を重んじた理由もきっと見えてくるに違いありません。早速、それらの謎に迫ってみましょう。

1. 竹ヶ島の竹林は人工か?

竹ヶ島は、古代から島の中央に竹林が生い茂っていることから、竹ヶ島と呼ばれています。竹ヶ島の大きさは南北に600m、東西におよそ400mであり、そのちょうど中央に位置する竹林の広さは、全体の直径が100m程度です。つまり、竹林のエリアはさほど大きくないのです。

竹林の中心にある三つ枝のご神木!
竹林の中心にある三つ枝のご神木!
竹ヶ島は、大陸棚斜面の海底で堆積した四万十帯と呼ばれる地層が隆起したものと考えられ、島の南北はいくつもの大きな断層が存在します。島の東海岸には海食痕が露頭し、断層線にはさまれた竹ヶ島は、およそ断層に連なる岩が隆起してできたものです。そして2つの主だった断層の隆起から竹ヶ島は形成され、その中間となる窪の部分が島の中心となりました。そこに竹林が生い茂っているのです。果たして、そのような岩石が隆起した島で、しかも海面から100mほど隆起した岸壁の中間に、竹が自然に生えることなどあるのでしょうか。

元来、竹は日本古来のものではなく、中国に由来する植林と言われています。よって、竹ヶ島に竹が生えているというのは、もしかして自然の産物ではなく、むしろ、中国経由の植林技術を携えてきた古代の人が、竹ヶ島の中心地に意図的に植え付けた、とは考えられないでしょうか。竹ヶ島周辺の離島には竹林がないことからしても、人工説の信ぴょう性を否定する理由がありません。

島の中心だけに生い茂る竹林
島の中心だけに生い茂る竹林
竹林の根は、地面に深く広がることはなく、むしろ、地面に近い部分を水平に広がりながら、網目のように固い根っこが地面を覆いつくします。その結果、竹が生い茂る場所は、他の植物が育成をはばかられ、竹林のみの様相となるのが普通です。しかも、大変硬い竹の根が地面をしっかりと覆い、地盤が安定することから、土砂降りの雨が降ってもそう簡単には地面が崩れないようになります。もしかすると、竹ヶ島の竹林は、地盤を強固なものにするために意図的に植林されたものなのかもしれません。

竹ヶ島の竹林を間近に見る!
竹ヶ島の竹林を間近に見る!
実際に竹が生い茂る地面を見てみると、不思議とその南側斜面と北側斜面とでは、地面に大きな相違があります。北側の斜面は頂上直下の急な斜面でもあり、直径1mから3mほどの大きな石が積み重なって表面を覆っているように見えます。実際、石の下には空気層が存在します。例えば、北側の斜面の下方部分で焚火をすると、そこから10mほどある上部の石の隙間から煙がでてくることからしても、自然か人工かに関わらず、岩間にはさまざまな空洞が存在するようです。また、南側の斜面は竹林に入ると、地面の上に砕かれた岩がまばらにまかれているかのごとく散らばっています。それらは自然に堆積されたものではなく、花崗岩の細かい石をしきつめたようにも見受けられます。

竹林中心部の盛り上がり
竹林中心部の盛り上がり
竹林が人工であると思えるもう一つの理由が、竹林中心部の盛り上がりです。隆起した巨大な岩石の合間に生い茂る竹林の中心部が、高さ1m、直径5mほどの大きさに盛り上がっているのです。ちょうど、小さな古墳のような形状をしています。地盤の調査をしたところ、地下5mほどの場所に、湾曲した岩石の層があるだけで、特にその上部だけが盛り上がる理由がありません。おそらく人の手で土盛りされて高くなり、そこが古代の祭祀場のような役割を果たしたのではないかと推測されます。東海岸には「壁の岩」なる巨石の磐座があり、島の頂上には、笠をかぶった頂上石があることから、島の中心地には竹が植えられ、その中心が祭祀場になり、そこが祈りの場となっていた可能性があります。それ故、後述するとおり、その祭祀場に向けて、7段のテラスが設けられたのではないでしょうか?

2. なぜ小さな離島の竹ヶ島に神社が存在するか?

竹ヶ島頂上に建てられた狼煙台跡の石碑
竹ヶ島頂上に建てられた狼煙台跡の石碑
現在、竹ヶ島は50mほどの短い橋で陸地と繋がっています。しかしながら、古代は無論、離島のままでした。そして竹ヶ島の頂上には古くから狼煙台が設けられ、海上交通のための目印となる基点としても用いられました。そのような狼煙台は竹ヶ島から今日の徳島市に向けて複数個所、設置されていたことが分かっています。その中で、紀伊水道に面する狼煙台としては、竹ヶ島は最も南に位置していました。

島の東岸に聳え立つ巨大な磐座
島の東岸に聳え立つ巨大な磐座
その島の東岸にある巨大な岩石、しかも30mほどの高さがある壁のような岩場にて、古代から神が祀られていたのです。近年までは無人島であった竹ヶ島ではありますが、さほど規模も大きくない島にもかかわらず、その太平洋に面している東側の海岸沿いにて、なぜ、神が祀られてきたかは謎です。そこには神社もなく、鳥居もなく、人工の建造物は一切ありません。ただ、打ち寄せる太平洋の波と、島の東岸にそびえたつ巨石があるだけです。

竹ヶ島神社の鳥居と略記の標
竹ヶ島神社の鳥居と略記の標
何も理由なく、神が祀られることはありません。その場所に、古代、なにかとても大切な理由が存在したとしか考えられません。その「うらうそ」とも呼ばれる東岸の聖地を奥宮として、後世においては島の北部で、かつ陸地に近い場所に竹ヶ島神社が建立されました。それほどまで大切にされた磐座の聖地だからこそ、とてつもない重要な歴史とメッセージが秘められているように思えてなりません。

3. 奥宮の磐座は自然に隆起した「壁の岩」か?

竹ヶ島の東岸には、本当に珍しい形状の巨石が聳え立っています。幅はおよそ3m、高さおよそ30mのうすい壁のような形状をした岩場です。その「壁の岩」の頂上には丸い巨石が置かれ、そこが最も聖なる場所として、古代より崇められてきたのです。

巨大な「壁の岩」として聳え立つ磐座
巨大な「壁の岩」として聳え立つ磐座
この「壁の岩」の特異性は、「壁」と言われるとおり、およそ3mの幅で海面から立ち上がった壁の形状をしていることにつきます。ということは、岩盤が隆起した際に左右の岩が崩れて落ちてしまい、薄い壁状になって今日まで存在する、ということになります。ところが、その左右には、そこまで岩石が陥落した形跡がないのです。唯一、目に入る光景は、「壁の岩」の正面、太平洋に面した3m幅の正面部分が、その頂上からずれ落ちて、陥落した形跡が残されていることです。よって、壁の正面はほぼ平らになっています。こうして「壁の岩」は、3方向に平らな面を持つ不思議な形状の岩となったのです。

果たしてこのような形状の岩が、自然に隆起して、その後、海水や雨風にいよって削られ、できあがるでしょうか。左右の壁状の岩石面からくずれ落ちたはずの岩はどこにいってしまったのでしょうか。なぜ、その「壁の岩」の最上部にて神が祀られてきたのでしょうか。そしてそこに置かれている丸い形状の巨石は自然のものなのでしょうか。それとも人の力で持ち運ばれてきて、祀られるようになったのでしょうか。

竹ヶ島の東岸に聳え立つ3連の「壁の岩」
竹ヶ島の東岸に聳え立つ3連の「壁の岩」
さらに大きな疑問は、この「壁の岩」を太平洋上、離れたところからみると、壁が綺麗に3連になって見えることです。この「壁の岩」は3連の中でも最も大きく、きれいに立ち上がったままその形状を崩すことなく、今日まで残されてきているのです。竹ヶ島の東岸は隆起した岩盤からなる岩だらけの場所ですが、島の北部、この「壁の岩」があるところだけ、3枚の壁が立ち上がっているように見えるのはなぜでしょうか。それは自然に立ち上がった3枚の壁でしょうか。それとも、古代の民が岩を削り、意図的に3連の岩としたのでしょうか。なぜ、そのような造作をする理由があったのでしょうか。疑問はつきません。

4. 頂上石にみられる巨石の笠は自然の産物か?

竹ヶ島の頂上で海岸方向に向けて複数の岩石が露出しています。今日では竹ヶ島休憩所として頂上には屋根付きのベンチが設置されています。そこに隣接して島の頂上石があります。その巨石の形状が笠をかぶっているのです。横から見れば一目瞭然ですが、巨石の上に笠がのせられているような形をしています。これは自然の産物でしょうか。

頂上近くの巨石も笠をかぶっている
頂上近くの巨石も笠をかぶっている
島の頂上は「四国の道」の通り道沿いにあります。そして頂上から北方へ向けて四国の道を歩いていくと、その50m先の右側、太平洋側に直径が5mを超える大きな巨石が見えてきます。この巨石から海に向かって真っすぐ下がっていくと、「壁の岩」の聖地に辿りつきます。つまり、この巨石は、「壁の岩」からみて、その真上にある最上段の巨石なのです。この巨石を真横からみると、これまた巨石が笠をかぶっている形状をしているのです。ちょうど巨石の上に、笠をのせたようにも見える石の形は、不思議としかいいようがありません。人工的に笠の形状に作ったものなのでしょうか。

ストーンサークル
ストーンサークル
また、この巨石の真下には多くの岩が転がっています。その上に長年にわたりかぶさっていた土を取り除くと、下に埋もれていた岩の形状があらわになってきました。そしてふと、気が付くと、それらの岩が円形に並べられているようにも見えるのです。環状列石とも呼ばれるストーンサークルのように丸くおかれている岩は、たまたま偶然、この巨石の前に円形に露出したのでしょうか。もしくは、巨石からくずれた石が、円形状に並んで落ちたとも考えられなくはありません。しかしながら、この巨石の真下には空洞が見えることから、巨石が積まれてきたような形跡も否定できません。巨石上の笠や、環状列石上の岩の配列状態、そしてそれらの真下に「壁の岩」の聖地が海に面して存在する、ということは、何らかの思いが込められて、この巨石周辺に人の手が入ったように思えてなりません。果たして、この巨石周辺にも古代の人の手が入っていたのでしょうか。

「壁の岩」最上部の御神石も笠形状
「壁の岩」最上部の御神石も笠形状
そのストーンサークルと巨石の笠がある地点からまっすぐ海に下っていくと、そこに竹ヶ島最大の巨石からなる磐座、「壁の岩」が存在します。この一連のつながりは偶然とは思えません。しかもこの磐座の最上部にはご神体となる巨石が置かれているだけでなく、その頂上石も、笠形状となるべく先端が海側にはみ出ているのです。果たしてこれも自然の産物と言えるでしょうか。

5. なぜ、7段階のテラスがあるか?

雑林の中から発見された古代のテラス
雑林の中から発見された古代のテラス

国定公園内にありながら、長年放置されてきた竹ヶ島は、2015年まではほぼ、ジャングル化していました。古代から存続した美しいはずの竹林の真っただ中に杉の木が植林されたり、それらの植林があちらこちらで切り倒されて散らかされ、島内は足の踏み場もないような雑林と倒木に満ちていました。

そこで竹林の整備をボランティアではじめ、倒木を運びだし、杉の木の根を取り除く作業に着手したのです。そして5年がかりで竹林の周りを綺麗にした結果、美しい自然の美にあふれる竹ヶ島の竹林を再現することができました。

7段のテラスには大きな石も使われている
7段のテラスには大きな石も使われている
その整備事業の途中で浮かび上がってきたのが、7段階のテラスの存在です。日本語では段々畑と言ったほうがわかりやすいかもしれません。つまり、島の中央にある竹林に向けて、島の西側から東方に向かい、7段の段々畑のようなテラスが作られており、その形状がはっきりと見えてきたのです。このテラスの西側、陸地に向けては、山道が200mほどくだっており、その先の西海岸は「ビシャゴ磯」と呼ばれています。古代では今のような橋がなかったことから、この「ビシャゴ磯」に船をつけて、そこから山道をあがり、テラスへと向かったと考えられます。

地元住民の言い伝えでは、戦前の貧しい時期、島民が食料を確保するために、この段々畑に農作物を植えて、生活していたと聞きます。そのような耕作が可能だったのは、おそらくここに、それ以前から段々畑に匹敵するテラスが存在していたからだと考えられます。

7段のテラスには大きな石も使われている
7段のテラスには大きな石も使われている
テラスの段が作られた年代は、おそらくいくつかに分類されます。何故ならば、テラスを造りあげるための石の積み方、石の切り方、大きさが、段によって全く違うからです。下から3段目の段を造る石は大きく、石切りの職人でなければできないほど、しっかりと作られています。おそらくこれが一番古い段であり、島民が作ったものとは考えられません。石の切り方、矢の入れ方からして年代はかなり古いものであると想定され、島に人が居住する以前の遠い昔から、テラスが存在していたと考えられるのです。

秋分の日には真東から太陽が差し込む!
秋分の日には真東から太陽が差し込む!
しかもこの7段のテラスは東西方向に並んでいて、春分の日、秋分の日に太陽が太平洋側からあがってくると、朝日が竹林の中を通って、テラスに差し込みます。隆起している岩石がほぼ東西に向かって連なっているこことから、当たり前のことのように考えられがちですが、竹ヶ島のような小さな離島の中心部に向けて、岩場の合間に段々畑のようなテラスをなぜ、造成したのでしょうか。なぜ、海岸沿いのビシャゴ磯から上がってくると、まず、このテラスに辿りつくように山道が整えられていたのでしょうか。そしてこのテラスの先には竹林があり、島の中心地が存在します。それはまさに、その竹林と、島の中心地を聖地として巡礼するような様式のようにも思えます。果たして、このテラスが造成された古来の目的は何だったのでしょうか。

6. 竹ヶ島は巨石の石切り場であったか?


切られた石が散らばっている石切り場跡

巨石の端々には大きな矢の跡が確認される
巨石の端々には大きな矢の跡が確認される
7段のテラスの最下段の先、ビシャゴ磯へと下りていく山道の始点の個所に、島内では最も大きな巨石が露出しています。その場所が大規模な石切り場であったことは、巨石の上段隅々に残されている大きな矢の跡から理解することができます。巨石を切るためには、幅、8-10㎝の大きな矢が使われ、また、小さな石を切るためには、4-5㎝の矢が使われています。 矢の跡が残された大きさや形状からして、大きい矢の跡は、大阪城を建造した時の石の切り方、すなわち豊臣秀吉の時代から室町時代のものに類似しています。しかしながら小さい矢の跡は、その年代を特定するのが難しそうです。

山道沿いに積みあげられた無数の石
山道沿いに積みあげられた無数の石
巨石の真正面と、その周辺は、その石から切られたと考えられる石で埋め尽くされています。大きさ10㎝もない小さな石の破片から1mくらいもある大きな石まで、様々な大きさと形状をした石が散在しています。特筆すべきは、ビシャゴ磯へ降りる入り口の側面に積み上げられた石の数々です。山道の斜面には崩れないように綺麗に石が積み上げられ、斜面を形成しています。その斜面の上に登り、石を取り除くと下は空洞だらけであることからしても、人工的に石が積んであることがわかります。なぜ、山道の斜面に石を積み上げたのかは、知る由もありません。

石を切った矢の跡が残る破片
石を切った矢の跡が残る破片
また、大元の岩石から切り落とした巨石の数々は、どこにいってしまったのでしょうか。竹ヶ島から大阪城に運ばれたのでしょうか。それとも違う時代の将軍や地域の豪族の命に従って、どこかの建造物に用いられたのでしょうか。もしくは島内の段々となるテラスや、竹林周辺の岩場を形成するために使われたのでしょうか。「壁の岩」の両側の岩についても、その行方は不明です。果たして、テラスの入り口にある巨石は、切り落とされてどこに運ばれたのでしょうか。

7. 金の鶏が竹ヶ島にきた?

徳島県の石尾神社にある金鶏の標示
徳島県の石尾神社にある金鶏の標示
徳島界隈には、古くから金の鶏が訪れた、もしくは秘められた、という言い伝えがある場所が複数あります。穴吹にある石尾神社は、ご神体が巨石そのものであり、金の鶏の伝承が古くからある神社の一例です。

竹ヶ島神社の神輿の上に飾られた金の鶏
竹ヶ島神社の神輿の上に飾られた金の鶏
実は、竹ヶ島の周辺にも、金の鶏に纏わる言い伝えが残されています。竹ヶ島の南側には、海上にかすかに浮かぶ程度の小さな島があります。なかでも二子島は本当に小さく、一番長い辺でも直径が10メートルあるか、ないかというような小さな島です。今日、二子島は漁業組合が管理していますが、古代、この島が重要な位置づけにありました。 

竹ヶ島に隣接する四国の対岸でも、徳島県側の南、高知県東洋町側の熊野神社では、小戸ろくごとに金の鶏がご神体として祀られているのです。紀伊那智の熊野権現として光明を放つ金の鶏が、何とこの二子島に飛来した、というのです。よって、古くからその金の鶏をご神体として、竹ヶ島のすぐそば、東洋町甲浦の高台に建立された熊野神社では祀っています。面白いことに、伝承によると、この熊野神社には鳥居がなく、その理由は幾度となく鳥居を建ててもすぐに倒れてしまうから、とのことです。鳥居は魔除けのシンボルでもありますが、そんな必要がないほど、権現の御神体そのものが到来したということなのでしょうか。以来、熊野神社は鳥居のない神社として、今日にいたっています。大事なことは、竹ヶ島から100mの距離もない標高数メートルしかない小さな二子島に金の鶏が飛来したという伝説です。火のない所に煙は立たず。

美しい神輿の上には何故か金の鶏が置かれる
美しい神輿の上には何故か金の鶏が置かれる
それから何世紀、いや、一千年以上もの年月を経た今日、竹ヶ島では例年、神輿が担がれています。そして5月、祭りの日になると「あばれ神輿」とも呼ばれる神輿が若者の肩に担がれ、竹ヶ島神社から勢いよく階段をくだり、東岸の海にまで神輿は運ばれ、そこから海中神輿が行われるのです。無論、神輿の一番上には金の鶏が置かれています。なぜ、神輿が海中までかつがれるのでしょうか。なぜ、竹ヶ島の目先にある小さな岩場、二子島には金の鶏が飛来した伝承があるのでしょうか?なぜ、その金の鶏のようなオブジェが、竹ヶ島海中神輿で担がれる神輿の上に置かれているのでしょうか。

竹ヶ島神社の拝殿
竹ヶ島神社の拝殿
もしかすると、本当に金の鶏が竹ヶ島そばに訪れたのかもしれません。それを機に、熊野神社が建立され、竹ヶ島では太陽が昇る東側の海岸に磐座が定められ、聖なる数字は3であることから、そこで3列の巨石からなる磐座が丁寧に造られたのではないでしょうか。そして島が清められるために、島の中心では土が盛られ、そこで祭祀活動が執り行われたと想定するには、果たして無理があるでしょうか。島の中心を守るために、竹林が人工で行われ、そこに竹が生い茂るようになったのです。

拝殿裏側のご神木
拝殿裏側のご神木
果たして、金の鶏に纏わるロマンは、本当に竹ヶ島に結びつくのでしょうか。竹ヶ島のロマンは続きます。そしてそれが単なるロマンではないことを、空海こと、弘法大師が今日、自ら手を加えて彫った造作物をもって証言しているのです。