竹ヶ島の歴史

海辺を中心とする集落の発展

古代社会において、四国の最南端である室戸岬から北方の淡路島近郊まで船に乗って航海する機会が増えるにつれて、高知、徳島の太平洋岸では徐々に集落ができ始めました。特に河川口のデルタ周辺では船が川を行き来することが多くなり、港ができると同時に集落が栄えたのです。

古代の日本社会においては、高地性集落が瀬戸内海周辺の各地に散在したことが確認されています。四国の太平洋側から上陸した人々も、その例に漏れず、最終的に高地へ向かった民は少なくなかったと想定されます。その道の途中には、古代日本における最大の辰砂工場として知られる若杉山遺跡もあり、多くの人々が働いていた痕跡が残されています。一説では、これら四国の東部の高地性集落が邪馬台国のルーツではないかと言われており、その実態は定かではないものの、古代社会における四国東海岸沿いの位置づけが、極めて重要であったことに変わりありません。

また、海部を中心とする集落で生活をしていた人々は、そこから海部川沿いに、今日の土佐中街道を四国の山麓に向けて旅することができました。そしていつしか、那賀郡の北、東は勝浦郡からその西、雲早山、高城山を抜けて剣山の麓に至るまで、川の上流では高地性集落が築かれるようになったと考えられます。その海部川の河口近くに、竹ヶ島が存在します。

竹ヶ島が祭祀場となった所以

室戸岬と伊島、淡路島を結ぶ中間点の島として重要な位置づけを占めたのが竹ヶ島です。海部港に辿り着く直前の島であり、太平洋側は岩石が聳え立ち、島の頂上からは海を一望できることから、展望台としても古代から重宝されたことでしょう。

陸地から離れている離島であることから、人が住みにくいはずの竹ヶ島ではありますが、何故かしら島の東岸では古代から神が祀られてきました。それは人々が陸地と島を行き来していたことの証でもあります。太平洋に面する東側には巨石群が聳え立ち、その周辺では祭祀活動が行われていたのです。それ故、いつしか海中神輿のような祭事が始まり、今日まで続けられてきました。

竹ヶ島の歴史については、地域の史料にもほとんど記載がないことから、詳細は特定できません。なぜ、離島の太平洋側が神聖な場所となり、古くから祭祀場として人々から崇められてきたのか、その背景は謎に包まれています。今日わかっていることは、古代から島の太平洋側には不動さんがあり、古宮とも呼ばれていたその場所には巨大な壁のように聳え立つ巨石が三連になっていることです。そしてその中間の巨石の上には丸い大岩が載せられています。その絶壁とも言える巨石の上で、古代から人々は神を祀ってきたのです。

室戸岬や紀伊半島、そして北方に伊島を見渡すことのできる竹ヶ島は、巨石からなる磐座も存在したことから、古代から海人の要所として、その重要性が認められていたと考えられます。また、竹ヶ島は剣山からの距離がちょうど20㎞になるということにも注視する必要があります。四国八十八ヶ所の霊場の中には、同様に剣山から20㎞の位置にある札所が複数存在します。よって、これらの聖地が何かしら紐づけられている可能性があります。室戸岬に向かう途中、竹ヶ島を目にした空海も、島の重要性に着眼し、磐座の存在を確認したうえで、島を神聖な場所として認知したのかもしれません。

竹ヶ島番所跡と狼煙台の設立

時代は過ぎ去り、1716年の江戸時代には徳島藩が、竹ヶ島を正式な番所として、「竹ヶ島番所」を設置したと諸番所改帳に記されています。そして1792年には、郡奉行支配の竹ヶ島御番として、惣田佐助と杉岡悦之丞が就任したことが蜂須賀家文書、「徴古雑抄続編」に記録されています。

その後、文化4年(1807年)には竹ヶ島の山頂に遠見番所として砲台も設立され、そこが狼煙台として公認されました。その山頂からは、太平洋が一望できるだけでなく、南方には室戸岬、北東には紀伊水道、そして東方には熊野山地を見渡すことができたのです。よって、古代より見晴らし台としての役割を担っていた竹ヶ島は、正式な狼煙台としても認知されたのです。

南方から室戸沖を越えて海上を北方に航海する船乗りにとって、紀伊水道へ向かう中間点に浮かぶ竹ヶ島の存在は重要でした。竹ヶ島の狼煙場は、船が難破した場合や、外国船の侵入、攻撃があった場合などに狼煙を上げて、周囲の民に通報することを目的としました。遠見番所と呼ばれる狼煙を用いた連絡場所は、四国の太平洋岸から紀伊水道沿いにまで連なり、その数十か所にも及ぶ遠見番所の最初に竹ヶ島は名をあげたのです。そして文化5年(1845年)、何故か竹ヶ島の狼煙台は廃止されることとなりました(「海部狼煙場覚」蜂須賀家文書)。

竹ヶ島への移民

竹ヶ島の北部にある平地の部分には、古くから人が住んでいたようですが、その詳細については記録が残されていません。近世に至っては1847年、16名が島に移住したことが記録に残っています。狼煙台が廃止された直後のことでした。そして1854年には、島内に50戸の家があったことが史料に記されています。

遊歩道として名高い「四国の道」

最近では「四国の道」と呼ばれる遊歩道が四国全域に作られ、その道筋の中に竹ヶ島も含まれています。その遊歩道は竹ヶ島の漁港近くの竹ヶ島神社から始まり、山頂を通り抜け、島を一周する形で竹ヶ島神社の古宮となる磐座の上を通り、再度、漁港まで戻ってきます。その遊歩道の西側で漁港と内地に面しているエリアは島全体のおよそ3割にあたり、今日、海陽町が所有しています。そして遊歩道の外側、太平洋側に面しているエリアは狼煙台の責任を遣わされた一族の末裔と考えられる竹崎家が近年まで所有してきました。