竹ヶ島神社

竹ヶ島神社のお祭り

竹ヶ島神社では、海上安全と大漁祈願の神として、国常立命、大国主命、事代主命が祀られていることから、漁師やその家族の方がよくお参りに来られます。お祭りは年3回、春祭り(初祭り)が旧暦1月16日、本祭りとも呼ばれる例祭が旧暦4月16日、夏祭りが旧暦6月16日に行われます。神社は任期2年の宮総代5名と、全体を取り仕切る総代、計6名により管理されることになっています。その他、祭りや行事の責任を負うトウヤが1名いて、毎年、抽選で決まります。

初祭りと夏祭りでは、古くから神輿を使うことなく、神主が拝殿にて神事を執り行った後、島の家を一軒ずつ回って祈りを捧げます。旧暦の4月16日、新暦では5月に行われる本祭りでは、竹ヶ島の住民全員だけでなく、海部郡一帯から漁業関係者が集まり、暴れ神輿の「浜入れ」と呼ばれる行事が執り行われて賑わいます。

竹ヶ島神社略記本祭りでは午後1時より拝殿にてはじまる神事が行わった直後、神職が御霊代を本殿より神輿に遷され、神輿の御旅所渡御が行われます。本来の渡御行列の順番は、天狗、狭箱、火縄銃、金幣、恵比寿面、巫女、のぼり、太鼓、塩祓、神輿、塩祓です。神輿は若者およそ12人で担がれます。前後2本ずつある柄はそれぞれが2名で担がれ、各柄は縄で繋がれ、その縄を持つ者が1名ずついます。神輿は「チョーサジャ!」という元気良い掛け声とともに担がれ、拝殿を後に階段を下り、広場に出て練り歩きます。その後、浜におりて神輿は担がれたま海中に入り、時には水中に沈められたりします。そして一気に陸地に上げられ、島の東岸にある浦磯にある御旅所に運ばれて再び海に入ります。

竹ヶ島神社略記その後、浦磯では神主の祝詞と共に、氏子と島の人々は年寄りから子供まで全ての人が神輿の下をくぐり抜けるのです。竹ヶ島の氏子総代は6人いて、相談によって選ばれています。最後に神輿は竹ヶ島神社の拝殿まで担がれ、そこで御霊代を神輿から本殿に奉還して、一連の行事は終わります。神を担ぎながら海を歩き渡る不思議な儀式は、古代より現代に至るまで伝承され続けてきたのです。神が宿るとされる神聖な神輿をわざわざ海の中に入れることから、海中神輿とも呼ばれるこの行事には、重要な宗教的意味が秘められていたと考えられます。

今日、竹ヶ島では過疎化が進み、若手の担ぎ手が不足したことから、「浜入れ」の行事は2017年開催中止となりました。それまで既に6回、開催を中止していることからしても、今後の継続が危ぶまれます。海陽町の町会議員を務め、神社総代でもある島﨑氏は、「島の伝統行事を楽しみにしている人は多い。来年はできるように他の総代や宮司と対策を考えていきたい」と話しています。

竹ヶ島の御神体となる古宮の磐座

浦磯の海岸沿い、南側には薄い壁のように突出した形状をもつ3列の巨石が連なり、その合間に洞穴が存在します。そこには古代より不動さんが祀られており、氏神さまがおられた場所として、古宮とも呼ばれています。そして3mほどの厚さがある岩の壁のようにも見える巨大な岩場の頂上には、人工的に置かれたとも考えられる丸みを帯びた巨石があり、いつしかそれが神聖な磐座となり、信仰の対象となりました。

陸地から100mほど離れた離島にて、古代より海岸沿いの洞穴にて神が祀られ、そこには「岩の壁」の様にも見える巨石があり、その岩場の頂点では神が祀られていることから、古代では竹ヶ島を聖地とみなす何かしらの特別な理由が存在したはずです。海を渡ってでも、そこで神を祀る特別な理由があったが故に、巨石からなる岩場は古宮と呼ばれるようになり、そこで古くから神が祀られたのです。

竹ヶ島の東岸に並ぶ3連の岩壁竹ヶ島の東岸に並ぶ3連の岩壁竹ヶ島神社の御神体は、島の東方、太平洋岸の古宮に隣接する巨大な磐座です。そこには珍しい形状を誇る巨大な岩の壁が並び、遠方の海上から壁が3列に並んでいることを確認することができます。それら岸壁の雄姿は国内でも例のない特異な形状と規模を誇り、その中心となる岩の頂点には、磐座の象徴となる巨石が載せられています。この巨石は、位置や形状からして単なる大自然の働きによる産物と考えるには、いささか不自然なようです。むしろ、祭祀活動を行うための聖なる磐座として、古代、人の手によって岩の頂上に載せられた可能性があります。その場所が竹ヶ島の聖地となり、その岸壁の周辺にてこれまで多くの方々が、神を参拝するために集ってきました。

後世においては四国の讃岐で生まれ育ち、19歳の時に室戸岬にて霊の目を開眼された空海、こと弘法大師も、四国東海岸沿いを船で室戸岬に向けて旅する途中、竹ヶ島の存在に気づいたことでしょう。そこには古代の狼煙台が存在しただけでなく、島の東岸に突出する不思議な形状を誇る3連の岩場がありました。そして竹ヶ島周辺の地勢を学び、そこに古代より祭祀場があったことに注視した空海は、自ら竹ヶ島にて参拝し、そこを大切な聖地と心得たのです。そして空海自身が手を入れることにより、島の中心部分には竹が植えられ、いつしか「竹ヶ島」と呼ばれるようになったと考えられます。

竹ヶ島神社の由緒とは

竹ヶ島神社略記島神社の由緒は不明ですが、遭難船が神に助けられたという地元の伝承が残されています。ある荒天の夜、竹ヶ島沖で遭難した船が遠くに光を発している何かを見つけ、それを頼りに岸まで辿り着き、無事難を逃れたことから、島の人々が浦磯の奥の岩場に祠を建て祀ったことが、竹ヶ島神社の起源と言い伝えられてきたそうです。それ故、いつの日も航海の無事と大漁を願い、竹ヶ島の人々は島の東岸にある岩場の祠に集い、そこで神の御加護を祈念してきました。そして後世になって、現在の場所に竹ヶ島神社が建てられることになったのです。

竹ヶ島神社

それ以前に、古代では竹ヶ島では神が崇められ、大自然と神、人間との関係が大切に考えられてきたと推測されます。島の中央部には竹林が生い茂り、そこから西岸のビシャゴ磯にむけて、人の手で造られた7段の階層が東西に向けて存在します。そして春分の日と秋分の日には、島の中央部分から竹林が生い茂る中心に向けて太陽の光が差し込みます。これらは偶然とは考えられません。太陽と竹林、そして磐座、7段の階層、いずれも周到に計画された聖所の様相の一片を垣間見ているようです。

西アジアから到来した古代イスラエルからの渡来者にとっては、岩は「神」の象徴でもありました。実際、「神」の呼び名としてイスラエル人は古代から「岩」を意味する「ツ」という言葉を用いています。岩は神、として考えられていたのです。それ故、海上に突如として見えてくる岩の島は、正に聖なる場所と考えられたのです。こうして、竹ヶ島は、岩なる島として、その特異である故に、いつしか聖地化さたのではないでしょうか。

南海に浮かぶ秘められた聖地、竹ヶ島神社とその古宮の存在は、未だにその実態があまり知られぬまま、今日に至っています。夢と古代のロマンにあふれる竹ヶ島だからこそ、いつまでも美しくかつ、貴重な観光資源として、残されていくことを期待してやみません。

古来竹ケ島の正月神事

最後に、正月の行事について村史から抜粋します。
「竹ヶ島では正月の松飾りやお注連は十四日の晩に下げて、十五日の朝に浜にこしらえた大きなヤマで焼く。ヤマは部落ごとに十四日の晩に作るが、孟宗竹二本の笹の枝を立てておいて、中心に買ってきたシダを巻きつけて作る。そして笹の先には短冊を飾りつけておく。ヤマには門をこしらえておき、十五日の朝自由にお参りに行ける。また、十四日の晩には、ヤマのそばに小屋を建てて子供たちが小屋に泊ってヤマの番をする。小屋はくいを四隅に立てて竹とノダで壁を作り小屋の中には神様をまつった。ここが粥釣りの根拠地になる。十五日のヤマに火をつける時分には、番をしている子供が村中に知らせに回る。ヤマは十五日の午前中に焼く。このとき古い注連や古いお札を焼くが、きたない物は焼かない。これをサギッチョとかトント焼くとかいう。このときの火で身体をあぶると夏やせしない。これが済むまでは、浜などで大きな火は焚けない。サギッチョをやる子供は四、五歳から十五、六歳の子供で青年も入った。松原ではサギッチョサンをするときは男と女と二つの山をつくる。サギッチョはトクジンさんともいう。田に山から刈ってきたシダをこんもりと山のように盛りあげ、各家から下げてきた正月の注連縄で飾り、「山さまをつくった。十五日の朝にはお山様に火をつけ村の人々が集まり竹で餅をはさんで焼き食べあい、トクジン講をした(那佐)。一月十四日に大人る井上神社に行き、番小屋をつくって男の子が泊り、女の子がぜんざいを作る。十五日の朝早く山に火をつけやりこいもちを焼き、「あきの方にサギッチョ倒れ」といって燃やす。また十五日は、鏡餅を切って、その二切れとなますを神棚に供える(大野)。八山では十四日に番小屋を作る。小学生から上の子が十人から十五人で、薬やむしろで作る。これはサギッチョをよそのムラとつけ合うので、見張るためにこしらえた小屋である。番小屋は十五日には壊してしまう。十五日にはサギッチョさんの竹の一番上に短冊をくくりつけ、それを心棒にして大きな山をまく。短冊は一枚の紙を三つ四つに切ったもので、これは銭を出し合って買い、残った金で菓子を買って、子供達が番小屋で食べる。サギッチョさんは朝の二、三時ごろ火をつける。十四日についた若餅をやいて食べると夏病みせんと言う。芥附ではサギッチョは悪魔を全部残った金で菓子を買って、子供達が番小屋で食べる。サギッチョさんは朝の二、三時ごろ火をつける。十四日についた若餅をゃい」て食べると夏病みせんと言う。芥附ではサギッチは悪魔を全部昇天させて新しい年をむかえる厄よけの行事だという。サギッチョは今でも焼いている。公民館から援助金をだして子供たちにやらせている。」