竹ヶ島の地勢

竹ヶ島が由緒ある古代の聖地であることは、あまり知られていません。人里から遠く離れた四国の小島であったが故に、多くの人に知られることなく、今日までそっと守られてきたのではないでしょうか。一見、何の変哲もないような小さい島でありながら、古代、竹ヶ島が密かに注目された理由は、その特異な地勢と、海側から見える島本来の姿にあります。

竹ヶ島の岸壁遠い昔、大陸より日本列島へ渡来した古代人の多くは、船を用いて主に台湾から琉球を経て、南西諸島を北上してきました。九州から四国の南岸を経由して淡路島、及び本州へと辿り着いた海人一族は、列島随所に拠点を設けていきながら、当初は瀬戸内を基点として列島周辺を航海するようになったのです。その海人一族の航海技術は遠くアジア大陸の彼方、西アジア地方からもたらされたものです。

日本列島への船旅の最終到達点となった淡路島は、古代では日本列島の中心と考えられていたようです。何故なら、記紀には淡路島が国生みの原点となる場所であったことが明記されているだけでなく、地理的にも日本列島のおよそ中心に存在するからです。また、南西諸島の黒潮の流れに沿う列島は淡路島で終焉し、そこから北方へは航海できないことから、淡路島が黒潮の流れにのった「海の島々」の最終到達点であったのです。その淡路島方面へと向かうために南西諸島から北上する渡来者にとって、高知県の南方沖から四国の東岸を経由して紀伊水道から淡路島方面へと北上する航海路は重要視されてきたことは言うまでもありません。

古代の航海者は海上から確認することのできる多くの地の指標を用いて、天体の動きを確認しながら船旅を続けました。それら地の指標の中でも、特に四国の室戸岬は大事な拠点でした。室戸岬から夏至の太陽が昇る方角には富士山頂が存在します。そしてこの2つの拠点を結ぶ線上には、伊良湖岬、伊勢神宮内宮、大台ヶ原が並んでいます。また、室戸岬から冬至の太陽が沈むおよそ240度の方角には足摺岬と鹿児島の桜島御岳が並びます。よって、室戸岬を基点に、列島内の他の拠点の方角と位置づけを確認することができたのです。天体と地勢を検証しながら旅する古代の航海者にとって、室戸岬は重要な旅の指標でした。

室戸岬から北上する際に、次に重宝された旅の指標は徳島最東端に浮かぶ伊島であったと考えられます。伊島からは淡路島を一望できるだけでなく、西方には西日本で第2の標高を誇る四国剣山の頂上を遠くに望み、東方には熊野の山々を眺めることができます。また、伊島の真北には日本三奇の一つとされる生石神社の石の宝殿が存在します。伊島に紐付けられて生石神社の場所が見出された可能性があります。室戸岬から伊島まで、双方の拠点を海岸沿いに航海すると、100km近くもありますが、その紀伊水道に繋がる航海路は見渡しもよく、高知沿岸から淡路を介して瀬戸内や近畿へと向かう航海路は、徐々に重要性が確立されていくことになります。

その高知県と徳島県の太平洋岸を船で北上する際、室戸岬の北、35km先に見えてくるのが竹ヶ島です。室戸岬から始まる高知県の太平洋岸には、ごく普通の海岸線の景色が連なります。ところが、竹ヶ島周辺に近づくと、景色が一変することがわかります。それまでの穏やかな海岸の風景が、突如として巨石からなる岩場に囲まれた島の姿に変貌するのです。しかも島の頂上、標高およそ100mの場所からは、室戸岬と伊島、そして熊野の山々までも遠くに一望できるのです。古代の展望所としては、まさに絶好の位置づけにあったことからしても、古代人は注目したに違いありません。

竹ヶ島の岸壁竹ヶ島の岸壁は、四国の南方だけでなく、九州から関東までの広範囲の太平洋岸に分布する四万十層群と呼ばれる地層の広がりによって支えられています。その地層部は海底の堆積物が地滑りのように流れるタービダイトによって形成されています。タービダイトは、海洋プレートが毎年4cmほど大陸プレートの下に沈み込む際、岩石からはがれて付いてくる付加体が集合して出来上がったものと考えられています。竹ヶ島では、タービダイトにより泥岩と砂岩が交互に連なる互層を、島の沿岸随所にて確認することができます。それら四万十層群の地層に育まれた竹ヶ島の東岸ではいつしか岩石が隆起し、巨石の姿を露わにしたのです。

竹ヶ島の岸壁その竹ヶ島の姿は、室戸岬から続く海岸線とは一変して、まさに岩の島と呼ばれるに相応しい巨石により形成された島の様相を呈していたことから、近海を船で旅する人は一目で見届けることができたに違いありません。竹ヶ島の東岸のような巨石が連なり、タービダイトの地層が周辺一帯に広がるような島は、南西諸島から淡路島へ到達する航海路上、後にも先にも存在しません。それ故、室戸岬から淡路島の方面へと北上する途中に浮かぶ竹ヶ島は、暗黙のうちに聖なる島として、崇められるようになったと考えられます。