竹ヶ島神社

古代より竹ヶ島では神が崇められ、大自然と神、人間との関係が大切に考えられてきました。また、西アジアから到来した古代イスラエルからの渡来者にとっては、岩は「神」の象徴でもありました。実際、「神」の呼び名としてイスラエル人は古代から「岩」を意味する「ツ」という言葉を用いています。岩は神、として考えられていたのです。それ故、海上に突如として見えてくる岩の島は、正に聖なる場所と考えられたのではないでしょうか。こうして、竹ヶ島は、岩なる島として、その特異である故に、いつしか聖地化されていくことになります。

竹ヶ島神社略記竹ヶ島神社の由緒は不透明ですが、遭難船が神に助けられたという地元の伝承が残されています。ある荒天の夜、竹ヶ島沖で遭難した船が遠くに光を発している何かを見つけ、それを頼りに岸まで辿り着き、無事難を逃れたことができたことから、島の人々が浦磯の奥の岩場に祠を建て祀ったことが、竹ヶ島神社の起源と言い伝えられてきたそうです。それ故、いつの日でも航海の無事と大漁を願い、竹ヶ島の人々は島の東岸にある岩場の祠に集い、そこで神の御加護を祈念してきました。そして後世になって、現在の場所に竹ヶ島神社が建てられることになりました。

竹ヶ島神社略記伝承の信憑性に関わらず、竹ヶ島神社の御神体は、島の東方、太平洋岸に佇む巨大な磐座であることに違いはありません。そこには珍しい形状を誇る巨大な岩の壁が並び、遠方の海上から壁が3列に並んでいることを確認することができます。それら岸壁の雄姿は国内でも例のない特異な形状と規模を誇り、その中心となる岩の頂点には、磐座の象徴となる巨石が載せられています。この巨石は、位置や形状からして単なる大自然の働きによる産物と考えるには、いささか不自然なようです。むしろ、祭祀活動を行うための聖なる磐座として、古代、人の手によって岩の頂上に載せられたと考えられます。その場所が、竹ヶ島の聖地となり、その岸壁の頂上にて多くの方が、今日まで神を参拝して集われてきたのです。

後世においては四国の讃岐で生まれ育ち、19歳の時に室戸岬にて霊の目を開眼された空海、こと弘法大師も、四国東海岸沿いを岬に向けて旅する途中に浮かぶ竹ヶ島の存在に気づいたことに違いありません。海岸沿いを船で航海するだけで、その威容なる島の姿が目に映るからです。そして竹ヶ島周辺の地勢と、そこに古代より祭祀場があったことを学ぶうちに、竹ヶ島の存在価値と重要性を知ったのではないでしょうか。

竹ヶ島神社 神輿竹ヶ島神社 本殿

そしていつしか竹ヶ島では、暴れ神輿の「浜入れ」と呼ばれる行事が執り行われるようになり、大勢の人が例年、旧暦4月16日になると、神輿を担いで島の東方、浦磯へと向井、「チョーサジャ」と元気良く掛け声を掛け合いながら海に入っていったのです。そして、神主の祝詞と共に、島の人々は年寄りから子供まで全ての人が神輿の下をくぐり抜けるのです。神が宿るとされた神輿をわざわざ海の中に入れることから海中神輿とも呼ばれるこの行事には、重要な宗教的意味が秘められていたのではないでしょうか。そして神を担ぎながら海を歩き渡る不思議な儀式は、古代より現代に至るまで伝承され続けてきたのです。今日、竹ヶ島では過疎化が進み、若手の担ぎ手が不足したことから、「浜入れ」の行事は2017年開催中止となりました。それまで既に6回、開催を中止していることからしても、今後の継続が危ぶまれます。海陽町の町会議員を務め、神社総代でもある島﨑氏は、「島の伝統行事を楽しみにしている人は多い。来年はできるように他の総代や宮司と対策を考えていきたい」と話しています。

南海に浮かぶ秘められた聖地、竹ヶ島神社とその奥宮の存在は、未だにその実態があまり知られぬまま、今日まで至っています。夢と古代のロマンにあふれる竹ヶ島だからこそ、いつまでも美しくかつ、貴重な観光資源として、残されていくことを期待してやみません。